退院して、初めて食べたつけそばが、この世のものとは思えないくらい美味かった。

2025年12月28日

その店は、特別な名店というわけではない。
でも、僕にとってはよく通っている、顔なじみの店だ。
店長は以前、テニススクールに通っていて、
レッスンの合間に何度も顔を合わせていた。

だから、その店のつけそばは、
ただの「好きなメニュー」以上の存在だった。

入院が決まったとき、
「退院したら、あそこのつけそばを食べよう」
そう思った。
不思議なもので、苦しい状況の中でも、
頭に浮かんだのは、豪華な料理ではなかった。

あの店の、あの一杯。
それだけでよかった。

入院中の食事は、栄養としては十分だったと思う。
でも、味を楽しむという感覚は、どこか遠くにあった。
決まった時間、決まった量、管理された食事。
「食べる」という行為が、生活の一部というより、
治療の一環になっていた。

だから、退院後に暖簾をくぐったとき、
胸の奥が少しだけ熱くなった。

席に着いて、つけそばが運ばれてくるまでの時間。
湯気の立つ麺と、濃い色のつけ汁を前にして、
しばらく箸を持たずに眺めていた。

一口すすった瞬間、
熱さ、塩気、油の重さが、はっきりと伝わってきた。
「美味しい」というより、
「ちゃんと味がする」という感覚だった。

入院すると、今までの当たり前が、当たり前じゃなくなる。
好きな店に行くこと。
顔なじみの人と、同じ空間にいること。
それが、こんなにも安心する行為だったのだと知った。

食べ終わったあと、
店長と軽く言葉を交わして、店を出た。
特別な会話はなかった。
でも、それで十分だった。

退院後の生活は、すぐに元通りにはならない。
体調を気にしながら、無理を避けながら、
少しずつ日常に戻っていく。

それでも、
あのつけそばの味と、あの空気は、
「戻ってきた」と実感させてくれた。

当たり前だった場所に、
また座れたこと。
それが何より、嬉しかった。