ラケットを持たない僕と、一杯の豚汁

私は頭蓋咽頭腫の手術を2回経験しています。
手術や入院生活については こちらの記事 にまとめています。

久しぶりに訪れたテニスコートは、驚くほど活気に満ちていた。

「パンッ!」という乾いた打球音。生徒さんの笑い声。そして、冬の澄んだ空気の中に混じる、テニスシューズがコートと擦れる特有の匂い。少し前までは僕の日常だったその景色が、術後、休職中の今の僕には、どこか遠い世界の出来事のように眩しく映った。

「こんにちは」

そう声をかけると、仲間たちが「おっ、こちとせさん!」と笑顔で迎えてくれた。その変わらない空気感に、少しだけ強張っていた胸の奥がふっと緩むのを感じた。

僕たちの職場には、自由に使えるキッチンがある。挨拶を済ませて一息ついていると、「これ、食べていってよ」と、一杯の豚汁を差し出された。

お椀から立ち上る、真っ白な湯気。 受け取った手に伝わる、じんわりとした確かな温かさ。

一口啜ると、出汁の香りと野菜の甘みが体に染み渡った。 今はまだ、ラケットを握ってボールを追いかけることはできない。以前の僕なら、動けない自分を情けなく思ったり、焦燥感に駆られたりしていただろう。

けれど、この温かい豚汁をゆっくりと味わっているうちに、ふと思った。 「動けること」だけが、僕の価値ではないのかもしれない。

こうして仲間が作ってくれたものを「美味しい」と感じ、感謝して受け取ること。それも今の僕に与えられた、大切な時間なのだ。

胃の腑に落ちた豚汁の熱は、そのまま僕の小さな「やる気」に変わった。 焦らず、無理をせず、でも着実に。 またあのコートに立ち、今度は僕が誰かに元気を手渡せる日を目指そう。

最後の一口を飲み干し、「ごちそうさまでした」と伝えた。 心もお腹も、ずいぶんと軽くなっていた。

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